株式会社ユナイテッドアローズ 取締役会長
重松 理


1973年明治学院大学経済学部卒業後、婦人服メーカーで営業を経験。76年にセレクトショップの草分けとなったBEAMS設立に携わる。BEAMS 第1号店店長を皮切りにプロデューサー的役割を果たし、株式会社ビームス常務取締役を経て、89年に退社。同年株式会社ワールドとの共同出資により、株式会社ユナイテッドアローズを設立、代表取締役社長に就任。99年店頭公開、03年東京証券取引所市場第一部に指定を受け、04年には代表取締役会長へ就任。09年には代表取締役社長執行役員として指揮を執る。12年、代表取締役 社長執行役員を竹田光広氏へ譲り、取締役会長に就任。現在も自社オリジナル商品開発やバイイングのアドバイザーとして携わっている。

企業が成長を果たすとき、
経営者はどのような決断をしたのか?
そのポイントは何だったのか?
成長のヒントを探るべく当社代表の須原伸太郎が
クライアントの経営者に迫ります。

東証一部上場企業である株式会社ユナイテッドアローズ(以下UA)は、国内外から調達したデザイナーズブランドとオリジナル企画の紳士服・婦人服や雑貨などの商品を販売するセレクトショップ(全15ストアブランド208店舗)を日本全国に展開。従業員数3092名、連結売上高1150億円(2013年3月期)と業界屈指の企業へと成長を果たしました。今回は同社を立ち上げ、上場、そして現在の持続的な成長へと導いた重松理氏にお伺いしました。

コンテンツエリア1
日本の生活文化を豊かにするために
須原

重松さんは神奈川県の逗子でお生まれになり、ご実家の近所にあった米軍将校たちの居留区からアメリカの生活・文化の影響を受けて育ったのですよね?

重松氏

1949年生まれですから少年期はラジオやテレビ、映画を通して米国の生活文化が入ってきました。それに海外に移り住んだ姉が送ってくれたモノや姉が好きなファッションの洋書が家に置いてあったりと、姉の影響は大きかったですね。

須原

それから洋服に興味を。

重松氏

そうです。VANが一世を風靡したときに、アルバイトをして服を買ったら、姉が送ってくれた米国の服とは違う。これは米国のものをなぞらえたものだと。そこからです。ファッションを仕事にしようと決めたのは。欧米のものを紹介することは日本の生活文化を豊かにするためにプラスになる。そう思ってこの仕事をしてきました。

須原

それでアパレルメーカーへ入社。

重松氏

小さな婦人服のね。大学を出るのに5年かかりましたから(笑)、当時の業界大手はすべて落ちて、自分が勤めてみたいという男性服の会社もなかった。でも結果としてこれが良かった。モノづくりから営業、売上をつくる方法までも現場で学べて、このノウハウを持って、ビームスから小売りを始めたのです。

コンテンツエリア2
起業なんて思ったこともなかった
須原

ビームスは立ち上げから全体のプロデュースまでされていました。でも、起業されました。やはりトップにならないと本当の意味でやりたいことができないからでしょうか?

重松氏

ビームスが10年目を迎え、ビジネスモデルも定着し、次は生活文化を豊かにするために食・住・遊・知と幅広く開発しようという私の思いが強くなって、悩みに悩んで自分のやりたいことをやろうと、39歳で起業を決断しました。

須原

メーカーでの経験、そして事業の立ち上げも経験されて、満を持しての起業ですね。

重松氏

たまたまです。それまではお店をやりたいという思いだけで、起業なんてひとつも思ったこともありませんでした。

須原

90年渋谷店と92年原宿本店のオープンは、どこの大手資本のお店だろうと思うくらい、豪華で品揃えもスゴかったです。

重松氏

私のやりたかったことを全部吐き出して、具現化したのがあの店です(笑)。今まで扱えなかった品揃えにしました。

須原

あのときはワールドさんのバックアップ(借り入れや出資)があったかと思いますが、資金を他人から調達して展開することは怖くはなかったですか?

重松氏

時代が良かったんです。創業した89年はワールドが最高益を出し、我々がやろうとしている若者向けの小売りはワールドにとっても未知の領域で、投資対象として興味を持っていただきました。

コンテンツエリア3
クビを覚悟した3年目の9月
須原

創業当時で厳しかった出来事はございましたか?

重松氏

創業から3年目の9月のことです。知名度も上がり、仕入れや生産のバランスもよくなり、新しい価格帯の商品も投入して、自信を持って迎えた9月でした。ところが売れない。原因はまったく分かりません。9月中旬の経営計画検討会で私は詰められました。UAは累損も積み重なり、債務超過の状態にありました。この後も1カ月この状態が続いたら、クビを覚悟していました。どうしたものかと色々と策を練っている最中に、予定していたFMラジオ広告がスタートしたりしました。すると1カ月もしないうちにスゴい勢いで売れ始めたのです。この後、99年の店頭公開までずっと右肩上がりで売れ続けました。

須原

結局、原因は?

重松氏

残暑が厳しかったこと。そのためお客さまの秋物の購買が遅れていた。それだけでした。

コンテンツエリア4
パブリックカンパニーになりたくて
須原

上場のことをお聞きしたいのですが、UAがなぜ上場を?

重松氏

実は創業時からの目標です。パブリックカンパニーになることを、最低限のハードルとして目標設定していました。

須原

でも、一方で上場したら、好きなように仕入れができなかったり、売上に追われて面白い店が作れないという懸念はございませんでしたか?

重松氏

世の中を見渡せば、いいブランドを持った未公開のオーナー企業もあります。でもそうじゃないのです。私がやりたかったのは、社会の目に晒されながらも成長していく企業になりたかった。理由は、学生時代に社会に反発して生きてきたからでしょうね(笑)。

須原

なるほど(笑)。でも、そうは言われますが、ジャパニーズスタンダードを作るんだ。日本のリアルクローズを広めるんだというピュアな思いもお持ちだったんですよね。

重松氏

それはもちろん。我々は当時まだ欧米の生活文化紹介業でしたから。我々の経営理念は「私たちは世界に通用する新しい日本の生活文化の規範となる価値観を創造し続けます。」これからの日本の文化を我々がつくるべきだと思っています。

 

社長たるものプロデューサー
須原

重松さんは創業も、その後の会社の持続的な成長も共にご経験されました。でも一般的にはその能力や才覚は種類が違うと言われます。

重松氏

私は何か新しいものをマーケットに出していくという能力が他人よりはちょっと長けていると思っています。でも、それを継続的に安定的に拡大していく能力はあまりない。それはその能力を持った人が役割分担でやればいい。実際に元社長の岩城さんが私がやりたいことのレールを引いてくれました。その上に機関車を走らせるのは創業役員の水野谷さん。そして我々を世に知らしめるのは同じく創業役員の栗野さんと。

須原

なるほど、監督としてキャスティングを自然にされていた。やはり重松さんには経営者としての資質がそもそも備わっていらしたんですね。

重松氏

80年代の頃は社長たるものプロデューサーであるべきだと言われていました。その道でベストなディレクターを配して、プロデューサーは資金調達とマネジメントをして、最終的にベストな結果を出していく。創業からこの話はメンバーにしていましたし、この役割は私に向いているんじゃないかなと思います。誰が欠けてもUAはうまくいかないと思っています。

須原

チームとしてまとめあげる苦労はなかったですか?

重松氏

ないです。我々は「群れずつるまず」が基本コンセプトで、仕事が終わったら、はい、さようなら。飯を一緒に食うこともありませんでした(笑)。でもずっとビームスからやってきた仲間です。情報統制も信頼関係もできあがっていました。変わった仲間なのです(笑)。

 

おもてなしの技術体系化へ
須原

売上高1,000億円を超えた今、今後100年続く企業づくりに向けた課題はどのようなものでしょうか?

重松氏

そうですね。我々が差別化できている競争力を組織体系・技術体系として、企業風土に落としこんでいくことが今後の課題でしょう。経営トップはコアコンピタンスを明確にして、分析し続けられないとダメだと思っていますし、それを常に経営トップが意識しながら、社内を啓蒙しながら育んで醸成していく。いかに革新し続けられるかが課題だと思います。

須原

それはUAが強みとする「おもてなし」を技術として、システムとして持続させることですよね?かなりハードルが高い難題だと思われますが。

重松氏

人に紐づいたものは継承できないだろうと私も1年半前まで思っていました。でも、あるTV番組の取材の中でユニクロの上海の旗艦店で中国人のお客さまが、日本的な「おもてなし」の接客が気持ちよいと言っていたのを聞いて、閃きました。これは技術体系化できるのではないか?と、いま開発に取り組んでいます。これができたら、言語を超えて世界で通じる強い企業体ができると思っています。やはり日本人が世界から尊敬されるのは、日本の文化です。商品じゃないと最近思い始めているのです。

須原

では最後に、我が社では「100年続く、100億円企業」をキャッチフレーズに、お客さまの持続的な成長を応援していますが、ぜひそのような志を持つ経営者の方にメッセージをいただけますでしょうか。

重松氏

企業と言うのは、社会の不足感をその企業の技術で充足していくことに尽きると思います。好きだから、自分が得意だからというのは大事なことですが、まずは社会を見渡して、不足感を充足できるものは何か、お客さま満足につなげられるかを徹底的に極め続けることが正攻法だと思うのです。競争力も必ずそこにあります。自分たちもずっとそれをやってきました。そう考えていけば自ずとやらなくてはならないことも見えてきます。難しく考えないで、それを極めてはいかがでしょうか。

須原

分かりやすいアドバイス、ありがとうございました。

編集後記

衝撃のUA1号店(渋谷店)で人生初のスーツを購入したのが19歳の時。以来すっかりお店に魅了され、いつかこの会社の創業者とお会いしたい。と心に決めて、実際に重松さんとお会いできたのが7年前(36歳)。今は公私ともにお世話になっています。重松さんは、一言でいえば、とてもシンプルな方。経営を語るときも、商売を語るときも難しいことは一切言いません。その分、言い知れぬ凄味を感じるのは私だけではないはずです。「100年以上存続し、世界に通用する企業ブランド」を目指すUAをこれからも応援していきます。

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